「いじめられる側にも原因がある」といったニュアンスの言葉を、耳にしたことがある人は少なくないでしょう。
インターネットやSNSで検索してみると、多くの人が様々な意見を表明しています。
人それぞれ考え方は違うものの、私の意見としては、「その問いかけ自体がナンセンスである」の一言に尽きます。
今回はコラム記事として、以下にその理由を述べていきます。
「いじめられる側にも原因がある」という問いかけが良くない理由
いじめられる側にも原因があるのではないか、そういった問いかけや議論自体が存在するべきではありません。
いじめは誰に対して行うことも許されない
まず前提として、いじめは決して許される行為ではありません。
日本の法律にもいじめの禁止は明確に示されています。
例え相手がどんなに極悪人でも、どんな犯罪者でも、人が人をいじめて良い理由にはならないのです。

いじめられる側のことは何も関係が無い
いじめは誰に対しても行ってはいけない以上、いじめられる側のことは何も関係が無いことです。
つまり、いじめられる側のことをとやかく言う問いかけや議論が存在すること自体がナンセンスなのです。
いじめられる側の原因や特徴を示すことで、いじめが正当化されるような含みを持たせるような発言自体が良くないと考えています。
核兵器で例えてみると分かりやすい
例えば、核兵器は「落とされる側にも原因がある?」なんて問いかけがあったとして、ナンセンスだと思いませんか。以下のような感じです。
(例)核兵器は落とされる側にも原因があるのでは?日本は外国を侵略していて、悪いことをしていたから落とされたのではないか?
このような言葉に対し、「何を言う、不謹慎だ」という感想を持つ方も多いことでしょう。
具体的には、「日本がどうだったかは関係ない。核兵器を肯定するようなことを言うな」というのが多くの人が持つ感想だと思います。
第二次世界大戦中、確かに日本は積極的に侵略を続け、数々の過ちがあったことは学校で皆が学んでいる事実です。
しかし、だからといって核兵器の使用が許されるものではないというのは、日本人なら大多数が持っている感覚でしょう。
大勢の命を奪い苦しめる核兵器は非人道的とみなし、国も非核三原則として「核兵器を持たず、作らず、持込ませず」と決めており、国連でも核兵器禁止条約を採択しています。
そのため、日本の当時のことは関係なく、それを引き合いに出して核兵器を肯定するような意見や問いかけ自体がナンセンスです。
私は、いじめもそうあるべきだと考えます。
いじめは問答無用で無くすべきものである
いじめは、どんな相手だろうと許されるものではありません。
つまり、以下のような意見や問いかけは、筋が通らないもの、理屈に合わないものであり、存在自体が無意味なものとも言えるでしょう。
・「いじめられる側にも原因がある」
・「いじめられる方にも問題がある」
・「いじめられるのはお前が悪い」
・「いじめる方といじめられる方どちらが悪い?」
いじめの是非や原因論に関しては、「いじめられる側のことは一切関係なく、いじめの存在自体が悪い」というのが明確な答えだと考えています。
体格が小さかったり気が弱かったりといった、いじめの標的になりやすい人の特徴は確かにあるでしょう。しかし、それはいじめが決して許されるものではないという前提を十分に確認したうえで、議論すべきことだと思います。

